2008年08月04日

肥満が「美しい」とされる国

ミクロネシア便りタイトル<最終回>

 私の住むウエノ島は、毎日長い時間停電があります。テレビ放送や新聞の発行はなく、ウエノ以外の島には電気もありません。電気のない島では、石のカマドで薪やヤシの枯葉を燃やして炊事をします。

 パンノキという子どもの頭くらいの大きな果実が、チューク人の主食のひとつです。パンノキは、タロイモやバナナ、タピオカ、マンゴーなどと並ぶ主要な作物で、植えてから五年ほどで大きな木に成長し、たくさんの実がなります。皮をむいた実をゆで、それを臼で搗いてパン餅をつくり、タロイモの葉に包みます。パン餅は現地語でコンとよばれる保存食で酸味があって食べにくいですが、新鮮なものは甘くないサツマイモのようでおいしい。

 長い間のローカルフードや、マグロ、近海の魚を食べる伝統的な生活が、第二次世界大戦後はアメリカ的消費生活様式に変化しました。鶏肉やターキーテール(七面鳥の尾)、スパムなどの肉の缶詰、米やインスタントラーメンなどの輸入食材に頼っています。

 外来の患者さんの6〜7割は肥満です。高校生までは少ないのですが、20代から太り始めます。しかし肥満は「食生活の豊かさを示し、美しい」として好まれます。ちなみに2007年の州立病院の患者さんの死因は、糖尿病、ガン、高血圧、心筋梗塞、肺炎、栄養不良、心臓病、慢性閉塞性肺疾患、肝硬変、怪我、自殺、敗血症、未熟児の順でした。

 ヨイチという日本名をもつテクニシャンは、相撲取りのような立派な体格をしています。彼は高校を卒業後、昨年3ヵ月間パシフィックパラメディカルトレーニングセンターというニュージーランドの教育施設で生化学の教育を受け、現在はオリンパスの生化学自動分析器を担当しています。週末には自分の島のウドットに帰り、教会のミニスター(牧師)として島の人たちに聖書の話をします。

 先日5人目の赤ちゃんが生まれ、私の名前からKEIKOと名づけられました。ヨイチによく似た大きな眼の元気な赤ちゃんで、生まれた翌日には母子ともに退院し島に帰りました。健やかに育ってほしいと心から思います。(中川恵子)

ミクロネシア便り<最終回>
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プロフィール
 北海道勤医協で臨床検査技師として勤務。定年退職後、JICAのシニアボランティアとしてミクロネシア・チューク州に赴任中。
(民医連新聞2008年7月21日号より)

(終)
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2008年07月25日

チュークの出稼ぎ事情 来るフィリピン人、出るチューク人

ミクロネシア便り(5)チュークの出稼ぎ事情

 フィリピン人がこの島をささえているといっても、言いすぎではありません。多くのフィリピン人が、チューク州へ出稼ぎに来ています。技術系の職種が多く、病院の医師や看護師、秘書、レストランのコック、ホテルのマネージャー、スーパーの店長、大工、ゲイの美容師、洋服の仕立ても、みなフィリピン人です。

 なぜこんなに多くのフィリピン人を雇うのでしょうか。彼らは勤勉で、英会話ができて安い賃金でよく働き、この島では欠かせない労働力になっているからです。単身でチュークに来て母国の家族に送金している人が多く、長い間家族と離れ離れに暮らしています。コミュニティをつくり、週末にはキリスト教会のミサに参加します。

 ミクロネシア全域にフィリピン人たちが出稼ぎに来ている反面、多数のチューク人たちはパラオやグアム、サイパン、ハワイなどに出稼ぎに行っています。若者が出稼ぎに行って送金し、そのお金て家族や親威か生計を立てているという家が少なくありません。

 最近までいっしょに働いていたラボのテクニシャンが、ハワイヘ行ったきり帰ってきません。先に行った妻子のところへ遊びに行ったと思っていたら、ハワイのクリニックで働いていて、もう帰ってこないとのことでした。ハワイでは、高給で働いているそうです。アメリカと自由連合協定を結んでいるため、移動や就労は容易です。
      
 チュークにはCOMという短大がありますが、裕福な家庭の若者はアメリカやグアム、ハワイ、フィジーなどの大学へ進学するためチュークを離れます。 しかし、チュークの自慢の一つは、ミクロネシアで一番難関のザビエル高校があることです。ポンペイ、ヤップ、コスラエ、パラオ、マーシャルから優秀な生徒が集まり、大統領はじめミクロネシアの政治経済をささえる卒業生を輩出しています。

 先日、二年に1度のザビエル高校の学園祭に行きました。私は日本食のおしるこをつくって参加者に配り、好評でした。各州の伝統ダンスは素朴で野趣あふれ、この国が誇る文化の一端にふれた思いです。ミクロネシアの若者たちが伝統的な文化を継承している姿に、心が和みました。(中川恵子)

(民医連新聞 2008年7月7日号より)

ミクロネシア便り(5)チュークの出稼ぎ事情
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2008年06月26日

島の戦跡が語る 日本占領の歴史と悲劇

ミクロネシアだより 島の戦跡が語る 日本占領の歴史と悲劇

 私の住居の隣に、チューク国際空港の滑走路があります。この滑走路は、戦争中に横浜刑務所南支所から送られてきた千数百人の受刑者が造りました。彼らの囚衣は、シャツや股引、ふんどし、戦闘帽のすべてが青だったので青隊と呼ばれました。兵舎は八棟あり、それぞれ二部屋に区切られ、50坪ほどの部屋に80人が雑居していました。そこには、今はウエノ港があり、輸送船や島を往復するボートが停泊して賑やかです。

 青隊のほとんどの人たちは、生きて日本に帰ることができませんでした。炎天下の重労働から逃れて捕まり、看守に殺されたり、米軍の空爆後は本土からの補給が絶たれて、栄養失調や飢餓で亡くなるなど…。動けなくなると生きたまま埋められ、雨が降ると覆った土が流れ、体の一部が出てきました。私の住むメッチティウ村には、南風寮という慰安所があり従軍慰安婦が20人位いたそうです。第四艦隊総司令部があった隣のトノアス(夏鳥)にも慰安所がありました。

 窪田精は青隊として従軍し、この体験を書き記すため作家を志して『トラック島日誌』を書きました。

 島の北側、ポーベイ(亀の子湾)を見下ろす所に、戦没者之墓と刻まれた自然石の墓碑があります。そこは椰子が欝蒼と茂る草深い斜面で、墓碑は細い道にそっと寝せるように置かれていました。近くの小高い丘には、春島神社の階段や手水に使われていた跡がありました。

 1944年2月、第52師団の松本、金沢、富山連隊が、横須賀からトラック島をめざしました。トラック島付近で米軍の大空襲をうけて多数の犠牲者を出しました。この墓碑は、終戦後に生き残った松本部隊の人たちがつくったという話を、地元で観光業を営む末永さんから伺いました。

 先日、マサシゲさんという88歳の元気な日系チューク人に、声をかけられました。日本人を見ると、若いころに教えられた日本語で流暢に話しかけてきます。彼は日本に占領されていたトラック時代の生き証人ですが、若いころの話は明るくて屈託がありません。戦争の記憶は時間とともに風化していくようです。

ミクロネシア便り4 森の中に眠る戦没者の墓

(民医連新聞 2008年6月16日号より)      
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2008年06月09日

特徴ある疾患と検査 仕事はゆったりと

ミクロネシア便り3

 私が働いているチューク州立病院は、ウエノ島のほぼ中央にあります。州政府の建物や裁判所、高校、商店、民家などが立ち並ぶ官庁街です。島にはほかに二つのクリニックがあり、、大小40あまりの島じまに住む人たちの医療を担っています。離島にはディスペンサリーという簡易保健施設があり、ヘルスアシスタントが島民に薬の配布などをしています。

 病院は内科、外科、産科、小児科があり、120床で24時間対応。医師は18人です。検査室は検体検査が中心で、生理検査は心電図を放射線科が担当しています。CTなど高度な設備はなく、小型超音波診断装置は妊婦検診用です。

 尿や便検査では回虫卵や赤痢アメーバー、ランブル鞭毛虫といった原虫がみられます。

 昨年から、自動分析装置で生化学検査を始めました。測定用の水は雨水をろ過して使うと、高価なフィルターもすぐ傷みます。今は買った飲料用水を使っています。

 細菌検査の検体は膿汁が多く、ブドウ球菌や腸内細菌が検出され、喀痰からは結核菌も頻繁に検出されます。また重症の貧血患者が多く、家庭や親戚が検血のため検査室を訪れます。最近、交差適合試験を始めましたが、断水もあり、清浄な試験管を確保することがとても大変です。

 ここの医療は感染症や生活習慣病の治療、壊疸の手術などが大きな比重を占めます。診断や手術の機能に限界があるため、重篤な疾患はフィリピンやハワイの病院で治療します。

 一般にチュークの人たちは急がず、ゆっくりと物事を運びます。南国の強烈な日差しを避け、日陰に腰をおるして世間話をしたり、ビンロウジュという口の中が赤くなる木の実をガムのように噛んだり、強い風の後にやってくる地面を叩くような雨の中をゆうゆうと歩いたり。これは苛酷な自然環境の中で、培われた生きるための知恵なのでしょう。私は仕事を始めたころ、テクニシャンたちのゆっくりで細かいことにこだわらない仕事ぶりに戸惑ったものです。

 振り返ってみると、私の日本での生活はいつも忙しく、何かに追われている様でした。今では相手にあわせて待つという事にも慣れ、無理をせず自然な成り行きにまかせる生活を楽しんでいます。 

ミクロネシア便り 南洋桜
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2008年05月19日

検査技師として「何ができるだろう…」

ミクロネシア便り2

 51歳の時、ネパールに仲間と登山に出かけ、機内でネパール人医師と出会いました。彼は「カトマンズに臨床検査研究所を建てたい」と夢を語りました。私も話を聞きながら「いずれ海外でボランティアをしてみたい」と、漠然と思いました。
 
 翌年の夏季休暇、夫とネパールのランタン谷にトレッキングに。その医師が働く大学病院や診療所などを見学しました。

 大学病院とはいえ医療・検査室の設備、技術の現状は想像以上に厳しいものがあり、細菌感染症や原虫、寄生虫の感染対策が医療の大きな比重を占めていました。彼はネパールの奥地に寄生虫駆除の薬を無料配布する活動もしていました。

 その後、ネパールやミャンマーでのNGOの医療活動を見学するツアーにも参加。ネパールではブータンからの難民のための診療所やこども病院が、ミャンマーでは病院に来るための交通手段の確保や子どもや妊婦の栄養失調対策が大切な活動になっていました。ミャンマーの女性が「マイクロクレジット」という小口融資の返済をしながら、伝統機織や養豚する姿は印象的でした。

 見学してわかったことは、現地では感染症の検査などは医師や検査助手が行い、検査技師は、検査機器があってはじめて役立つ仕事、ということでした。またNGOの厳しい財政状況も知り、ボランティアとして期待される職種は、医師や看護師であることもわかりました。

 検査はボランティアとして要請されない職種だと思い、あきらめかけていたころに出会ったのがJICAのミクロネシアの募集でした。

 ミクロネシアに渡り、チューク州立病院の出勤一日目、12人のラボテクニシャンが握手で歓迎してくれました。検査室には血球計算機と生化学単項目測定機器、ヘマトクリット用超遠心器に遠心器、顕微鏡とフラン器など。日本の30年前に逆戻りしたような検査室の様子を見て、「私に何かできるのだろうか…」が第一印象でした。

 いまは病院職員と親しくなり、超スローペースながらも検査内容が進歩していることを実感しています。次回は、病院や検査室の様子やラボテクニシャンだちとのふれあいをお話しします。

チューク州立病院の風景
(民医連新聞2008年5月19日号より)
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2008年05月16日

日本とつながり深い 楽園と戦跡が同居する島

ミクロネシア便り(1)

 昨年1月、JICA(国際協力機構)から、ミクロネシア連邦チューク州立病院に臨床検査技師として派遣するという通知がありました。南太平洋に浮かぶ島の中から、チューク州という島じまを探すのは大変です。

 戦前、この島がトラック島と呼ばれていたことを知ったのは、キミコさんに出会ってからでした。キミコさんは住んでいるアパートの家主のお母さんで、ここに最初に来た日本人、森小弁さんの息子の妻です。小弁さんの生活の様子など貴重な話を聞きました。

 ミクロネシア連邦四州の中でも、チューク州は日本と歴史的なつながりが深い島です。第二次世界大戦中、トラック環礁内にある夏島は、日本連合艦隊の基地となり、戦艦大和や武蔵が停泊したそうです。1944年2月、米軍の空襲を受けて、多くの輸送船が撃沈、南太平洋における拠点が壊滅しました。戦後60年余年が過ぎて、沈船は珊瑚礁に彩られ、世界中のダイバーが訪れています。私の住むウエノ島はかって春島と呼ばれ海岸からは風雨に曝された多くの沈船がみられます。

 一般に太平洋の島から連想されるのは、碧い海や美しい珊瑚礁といった楽園のイメージですが、それらが観光として成り立つ島はごく僅かです。ミクロネシア連邦の多くの島には、産業はなく、カツオ、マグロの漁業が主要な収入源です。

 現在は、米国と自由連合盟約を締結、自治権はありますが、軍事や安全保障を米国に委ねています。経済的な自立は困難で、米国の経済援助に大きく依存しており、チューク州だけで約50億円の借金があります。観光に訪れるだけではうかがい知れない厳しい現実があります。 

 私は38年間、北海道勤医協の検査分野で働き、59歳で定年退職しました。共働きで育てた子どもたちも自立して孫も二人。定年退職後の夫の協力を得てこの地に赴任しました。海外旅行には行ったことがあっても外国に住むのは初めてで、何もかも驚く事ばかり。それをこれからみなさんにお話ししましょう。お楽しみに。  (中川恵子)

プロフィール
 北海道勤医協で臨床検査技師として勤務。定年退職後、JICAのシニアボランティアとしてミクロネシア・チューク州に赴任中。
(民医連新聞2008年5月5日号より)

日本軍が置いていった大砲
日本軍が置いていった大砲
posted by kin-ikyo at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | ミクロネシア便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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